46歳で会社をリストラされるまで、社長になろうだなんて思いもしなかったですね。 - 株式会社ウイズ・ワン 代表取締役社長 柴田美知男 -【1/2】
2013年12月 4日 17:21社長になる方法論

高卒で銀行に入社。花形である貸付業務に配属されたものの、先輩を殴ってクビに。その後入り直した会社で大手グループの人事部長まで勤め上げたが、バブル崩壊でまたもやクビに。そこからわずか2年で、ウイズ・ワンを設立。
傍から見れば波乱万丈な仕事人生を過ごしてきた柴田社長だが、人柄はあくまでも柔和で、つい話を聞いてもらいたくなる人懐っこさがある。不思議な魅力を持った仕事人、柴田社長の人物像に迫ってみた。
エリート街道とは程遠い、紆余曲折の連続だったサラリーマン時代。
編集部:社長になろうと決めたルーツを探っていきたいと思うのですが、まずは幼少の頃はどんな性格の子供でしたか?
柴田社長:遊びにしろ何にしろ、仕切るのが得意な子供でしたね。お前はこれ、お前はあれと配役を決めていって動かすような、仲間内ではリーダー的な存在でした。
一方で勉強はというと、科目によって好き嫌いがはっきりしていましたね。数学は成績がよかったです。なぜか数字を見るのが得意なんですよ。でもそれ以外はダメでした。
編集部:銀行に入られたのも、数字に強いのが理由ですか。
柴田社長:そうですね。ただ当時も、高卒で銀行員になるというのは結構な狭き門だったんですよ。しかも貸付係という花形の仕事も任せてもらえて。でもまあ、出る杭は打たれるの典型だったと思います。大卒の先輩たちから、あっという間に目の敵にされました。
今のようにインターネットで何でも調べられるような時代ではなかったですから、仕事は先輩や上司が教えてくれないとどうにもならなかった。でもまともに教えてくれるような人はいなかったです。人が真剣に質問しているのに、いい加減なことばかり言う先輩に頭に来て、ある時ついにぶん殴ってしまいました。悪ことなのは重々承知してはいますが、プツンと来てしまって。まあ、即刻クビになりましたね。
代表取締役社長 柴田美知男
編集部:後悔はしなかったですか?
柴田社長:しなかったですよ。未練も全くありませんでした。
で、そこから産能大学の短期学部に入り直したんです。当時の産能大学は、経営情報学が学べる先駆け的な大学でした。そこでコンピュータによる情報処理について学んだのがきっかけで、当時で言う電電公社のグループ会社に転職が決まりました。
編集部:そこで、今日のIT事業との接点が生まれたんですね。
柴田社長:ええ。でも当時から既に、ITや技術に関しては向いていないかもしれないなと思っていたんです。それよりもこの会社では、人事部長をしていた時のほうが思い出深いですね。46歳にしてリストラされたのも、それがきっかけでしたし。
編集部:といいますと?
柴田社長:その会社の社長は、とてもクレバーな方ではありましたが、仕事の現場には全く顔を出さない人でした。なので、バブルが頂点を超えて徐々に売上が落ち込み始めた時にも、あまり危機感を感じていなかったようでした。
私をはじめ取締役や執行役員も、みんな直訴しに行きましたよ。いつまでもバブル気分で経営をしていたら、確実に立ち行かなくなりますよって。それでようやく重い腰を上げてくれたかと思ったら、実にドラスティックな経営判断が下されました。私が人事部長として内定を出したたくさんの学生たちに、内定取り消しをしろと言われたんです。
経営判断的にはやむを得ないことだったと思います。そうしなければ会社が持たなかったのも間違いないですし。当時は今と違って、内定切りに対する世の中の認識も甘かったですしね。ただ、私とは決定的に考え方が違うんだなと思い、気持ちが切れてしまいました。それから間もなく、私にもリストラが言い渡されました。46歳の時でしたね。
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